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文章の理解に、支障・困難、を生じた場合の責任

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Copyright © 2019 TAKEHANA TADASHI
著作日時: 2020.04.20.月. 07:31:00 著作者、竹花 忠
文章の理解に、支障・困難、を生じた場合の責任:
 ことばの定義がわかって、構文の表す対応関係がわかって、であるから、文章で述べられている対象がわかる。
 また、文章で述べられている規準がわかることができる。
 従って、規準の、使用・運用・適用、が果たせる。
 つまり、頭の中でシミュレーションの実行が行える。あるいは、紙上でシミュレーションが行える。
 以上によって、文章からシミュレーションの能力が獲得されることで、対象や世界の理解が果たせる。
 それによって能力が、拡大・拡張、する。

 構文に誤りがなく、述べられている定義にも誤りがなく不足もなく、そして、規準の提示にも誤りも不足もなく、そして、飛躍なく、書かれているなら、そのような文章からは、理解が果たせる・わかることができる。
 だから、そのような文章からは、学習が果たせて・理解が果たせて・わかることができて、であるから、能力を、向上・増大・増強・拡張、させてゆくことが、できる・果たせる。
 反対に、上記のどこかに問題があると、理解が滞ることになる。あるいは、憶測・推定、での仮の理解となったりする。

 多義的な文章、誤解を生む文章、飛躍した文章、説明不足な文章、であると、理解に、支障・困難、を、生じることになる・生じさせることになる。
 そのような悪文の撲滅が望まれる。そのような悪文でなければ、十分に説明の尽くされた的確な文章であれば、理解の形成に、支障・困難、を生じさせることはない。
 文章からの学習において、支障・困難、を生じるのは、説明が下手だからである・十分に説明が尽くされていないからである。
 構文の表す対応関係がわかっていて、基本的なことばの定義がわかっていて、そして、学習した規準の、使用・運用・適用、が取り違えなく行える能力があって、それであるのに、理解不能に陥るというのは、説明が不十分であるから・説明が下手であるから・悪文であるから、である。
 読み手の側の責任ではない。
 反対に、構文の表す対応関係がわかっていない、基本的なことばの定義がわかっていない、学習した規準の、使用・運用・適用、に取り違えがある、ということであるなら、それによる理解不能であるなら、それは読み手の側の責任である。

 それはそれとしてまたそれとは別に、自分の中で、未形成の・未体験の・まだ表現していない・欠落している・不足している、表現を、作成・生産・案出・形成、する。
 それによって、表現や思考の、穴を・欠落を・不足を、埋めてゆく・解消してゆく。
 つまり、自在に、表現、思考、できる、範囲・対象、を拡張してゆく。
 そのための努力、取り組み、として、ことばの定義の学習や表現に取り組む時間を持つことは欠かせない。
 表現、思考、に使用できることばは当然、その表現が使用された文章の読解、理解、の際にも使用できる。

改訂著作日時: 2020.04.30.木. 22:42:00 著作者、竹花 忠
 ちなみに、『○○から□□まで』は、○○は始点、□□は終点、を表し、始点を出発して終点に至ることを表す。
 たとえば、麻生駅から札幌駅まで。
 これは、麻生駅を出発して札幌駅に至ることを表している。
 『○○は□□である。』は、○○は対象もしくは実態、□□は実態もしくは対象、を表す。
 そして、○○ = □□であることを表す。
 つまり、○○と□□とは、等しいことを・同じであることを、表す。
 たとえば、消尽とは、消し尽くすことである。
 『○○を□□に』は、○○゛か作用対象で、□□が被作用対象であることを表す。
 たとえば、水を花にかける。
 つまり、水が、かける、という作用を行う対象で、花が、その作用が行われる対象である。
 『○○で□□を△△』は、△△がどうするかで、□□がその対象で、○○が何によってか、を表す。
 たとえば、足でボールを蹴る。
 包丁できゅうりを切る。
 手で文字を書く。
 2番目の例でいえば、どうするかが、切る、で、それが行われる対象が、きゅうり、で、何によって対象にそれが行われるのかが、包丁、によって、ということである。
 『○○は、□□から、できている・構成されている・構築されている。』は、□□を、組み合わせて・使って、○○が完成していることを表している。
 たとえば、物質は元素からできている。
 パソコンは電子部品からできている。
 このほかにも幾つもの構文がある。
 各構文ごとに、構文中の各要素が、どんな関係でつながり合っているかが、決まっている・決められている。
 つまり、構文が表す、構文中の要素間の対応関係がわかっていないと、文章から、その文章が表している実態を把握することはできない。
 であるから、各ことばが何を表しているのか、つまり、ことばの定義、を学習しただけでは不十分で、さらに、各構文は、構文中の要素をどう結びつけるものなのかの知識も揃える必要がある。
 ことばの定義の知識と構文が表す対応関係の知識が2つ揃えば、文章から、その文章が表している実態を・その文章が表している対応関係を、把握してゆくことができることとなる。
 この2つを満たしているにもかかわらず、理解が滞るなら、それは、文章がへたくそなのである・説明がへたなのである・悪文なのである。
 理解が滞ってしまう責任は、文章の不味さにある・著者にある。
 その場合には、その文章にこだわっていても埒(=らち)が明かないだろうから、同じテーマについてのさらにもっとほかの、文章を・著書を、読んでみることが必要となる。そのテーマについての理解を果たしてゆくためには。