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知性と良識の礎

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Copyright © 2022 TAKEHANA TADASHI
知性と良識の礎:
著作日時: 2022/12/07 22:54
 矛盾し合うことのない、あいまいではなく明確な、不変に・不動に、真である・真とする、規準の、ラインアップ・セット、を用意する。
 その真である・その真とする、規準の、ラインアップ・セット、のもとで・の中で、それらに反しないで導出される成立状態を考える。
 つまり、真である・真とする、規準の、ラインアップ・セット、をことごとく尊重して守り尽くして、それらに一切反することなく成立する状態を導出する。
 それが演繹思考である。
 そして、取り違えなく演繹思考を進めきって得た内容は、その世界・その系、の中では、確かに成立し得る状態である。
 であるから、その内容は、その世界・その系、においては、確かにそのある特定の変遷を辿ったなら必ずそうなることが保証されていることを述べたものである。
 なのでその意味において、その内容は、その世界・その系、における、不変の・不動の・永遠の、真実である。演繹思考によって導出される内容は、不変の・不動の・永遠の、真実ばかりである。




Copyright (c) 2022 TADASHI TAKEHANA
著作日時: 2022/12/08 20:36
 法的根拠のない、要請・要求、は、わがままな自分勝手な、要請・要求、である。
 わがままな身勝手な、要請・要求、に応えるいわれはない。つまり、その、要請・要求、に応えることに十分な自己利益が伴わないなら、拒否・峻拒、すべきである。
 十分な自己利益の伴わない言動を執ることは、自己背任行為であり、許されないことであある。自己背任行為は、拒否・峻拒、しなければならない行為である。
 したがって、十分な自己利益の伴わない言動を執ることは、拒否・峻拒、する。




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著作日時: 2022/12/21 05:08
 不可避に再現性があると考えるのが妥当な規準、つまり、物理法則や化学法則、また、数学の、公式・定理、そして、法律、を、不可避に再現性がある規準と考えて進めてゆく思考が、擬似的演繹思考である。




Copyright (c) 2022 TADASHI TAKEHANA
著作日時: 2022/12/25 20:39
 合法的な読書と観察と体験によって自分の脳の記憶システムの中に、情報・知識、を、プロットする・登録する・取り込む。
 その、自分の脳の記憶システムの中に、プロットした・登録した・取り込んだ、情報・知識、は、自分の脳の記憶システムに携帯中の即時利用の可能性の高い、知財・知的財産、であり、また、その活用によって種々の能力を、発現して・発揮して、生活してゆく・生き抜いてゆく、ために使用されたりもするものである。
 知財の形成速度が遅いからといって、あるいは、知財の活用速度が遅いからといって、また、他者よりも知力が劣っているからといって、個人の財産である知財が奪われていいことにはならない。また、個人の財産である知財が横領されていいことにはならない。個人の財産である知財の活用が妨害されていいことにはならない。
 個人の財産でもあり、個人が生き抜いてゆくうえでの糧ともなる知財は、保全されつづける権利がある。また、追加の合法的な読書と観察と体験によって、さらにもっと自分の脳の記憶システムの中に、情報・知識、をプロットして・登録して・取り込んで、より一層、知財を積み増してゆく権利がある。
 それによって、より裕福な充実した生活が達成できる可能性が高まる。




Copyright (c) 2022 TADASHI TAKEHANA
著作日時: 2022/12/28 19:23
 心・意識・内面、に、接続、侵入した、状態・もの、には、一切、言い分を認めない。また、認めるべき理由もない。
 心・意識・内面、に、接続・侵入、している、状態・もの、は、肉体を伴っているものであるひとではない。ひとではない、状態・もの、であるから、そこに、人権は存在しない・人権は認められない。
 であるから、人権の存在に伴って認められる諸々の権利の一切が、そこには存在しない・そこには認めなくていい。
 なので、心・意識・内面、への、接続・侵入、に対しては、一切権利を認めないで・一切配慮なく、対処していい。
 従って、心・意識・内面、への、接続・侵入、に対しては、どんなことばやどんな心理的挙動を、投げかけてもいい。
 心・意識・内面、への、接続・侵入、は、壊滅させてしまえれば一番いい。そのためには、どんな心理的挙動を使用してもかまわない。




Copyright (c) 2022 TADASHI TAKEHANA
著作日時: 2022/12/28 19:51
 そのことの答えがこれだ、と特定できるための、情報・知識、を学習済みであれば、そのことの答えを導出できる。
 また、答えを導出できるのに十分な、情報・知識、が揃っていない時、措定・仮定、を、導入して・設定して、それも含めたことで、導出できたものが・特定できたものが、憶測である。そして、真実のところ、憶測には、正しい答えである保障はない。措定・仮定、した内容は、事実・実態、に一致している保障がないのだから。
 事実・実態、に一致している保障のないことを、事実・実態、だとして、導出・特定、を進めてえられたものが、憶測なのだから。
 それでも、憶測を進めて、それによって、導出・特定、された内容を獲得することには一定の価値がある。
 憶測によって得られた内容を使って、例えば、プログラミング言語の解釈を進めて、その解釈でそのプログラミング言語を使用してみて、それで、うまく、そのプログラミング言語によるプログラムが動作するなら、それなら、その憶測は正しい答えだった可能性が高い。憶測が正しい答えだった時には、問題なくそのプログラミング言語が使用できてゆける。
 もし、憶測を進めなかったなら、そのプログラミング言語の理解が進まず、そのプログラミング言語がうまくしようできず、そのプログラミング言語によって目的のプログラムを作成することに着手すらできずに途絶してしまう。
 であるから、憶測を進める余裕があるなら、憶測を進めてみることも一策である。
 ただしもちろん、憶測の必要のない、適正な表現が十分に尽くされて説明のなされた文献が与えられるべきである。
 しかし、文献の少々の不備であれば、憶測によって、論理の途絶を乗りこえられることもあり得るので、憶測に挑戦するのも有効な一策である。