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演繹とこの世界の実態との関係

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演繹とこの世界の実態との関係:
著作日時: 2020.03.07.土. 13:40:00 著作者、竹花 忠
 演繹(=えんえき)とは、絶対正しい情報に基づいて、あるいは、絶対正しいとした情報に基づいて、その設定において・それゆえ、100パーセント確実な成否、を確定しつつ進めてゆく思考である。

 公理(=こうり)とは、絶対に正しい情報、あるいは、その体系の中において、絶対に正しいこと・絶対に正しいこととして使用する情報、のことである。


著作日時 2020.03.11.水. 23:15:00 著作者、竹花 忠
 数学の演繹推論の時のやり方を真似て、つまり、いかなる命題も真か偽かのいずれかである(排中律)&規準には不可避に再現性がある&100%正しい保証のある判断に基づいて進めてゆく、以上3つの規準を使用して取り違えなく推論を進めてゆく。
 つまり、実際には、仮定・想定・仮説、でしかない内容ではあるが、それが、公理であるとした場合における演繹内容を導出する。
 そして、そのときそのときにおける整合した対応・整合した対応内容、を、導出して・顕現化して、確認・点検・検証、する。
 その演繹思考による導出内容が実態とが一致していれば、公理とした、仮定・想定・仮説、が真であると、帰納法上推定される。
 つまり、観察した時間範囲にあってはそうであった対応関係を、解明・把握、する。
 それが不可避に再現するなら、その対応関係は、この世界の実態を述べたものであると言える。
 ただし、不可避に再現することの確認は不可能なので、実際に試してみた範囲の回数で再現性があったら、不可避に再現するものと推定してしまう。
 以上の枠組みにおける、取り組み・成果、である。サイエンスの取り組み・サイエンスの成果、というのは。
 当事者がどう認識していようと意図していようと、部外者がどう認識していようとどう意図していようと、誰がどう認識していようと、誰がどう意図していようと。
 実態構成上、そうでしかあり得ようがないのだから。実態の成立をもたらす原理の全容が不明の中での取り組みであるのだから。


著作日時: 2018.11.24.土. 15:46:00 著作者、竹花 忠
 この現実世界についてのサイエンスのルールは、帰納法によって見出されている、原理・法則、である。
 であるから、不十分な検証によって、実際とは一致していないものを、原理・法則、として打ち立てている可能性もある。十分な検証など行い得ようがないものなわけで。
 また、いつ、原理・法則、が変化しないとも限らない。
 しかし、その、原理・法則、が不変に持続している間にあっては、その、原理・法則、を公理として、推論を進めて導出される内容通りのことが、生成・成立、して、変遷展開してゆく。
 であるから・つまり、この現実世界は、擬似的に、サイエンスのルールに従った演繹推論によって、予測・判定・判断、が正しくおこなってゆける世界、として扱ってゆける。
 これまでこの現実世界の中を散見してきている自分(=竹花忠)の、実感では・憶測では、現代のサイエンスのルールは実用上十分に水準の高いものであり、そして、この現実世界の、原理・法則、も相当に長期にわたって一定不変でありつづけているようなので、これからもこのままの、原理・法則、というか、現象と現象の間の対応関係が変わらず持続するものと期待している。
 なので、自分(=竹花忠)は、この現実世界における事象を考える時、現状のサイエンスのルールを公理として、そして取り違えのない推論をおこなって、つまり、演繹思考によって、結論・予測・判定・判断、を導出して事を進めてゆくことで正解が得られる、という立場である・という認識である・という理解である。原理・法則、が一定不変で安定して持続しつづける限りにあっては。


著作日時: 2020.03.07.土. 10:24:00 著、竹花 忠
 将棋は、将棋のルールを公理の体系として、その公理の体系の中に置いて成立し得ることを成立させて、自らが勝利した状態をより早く完成させることを、競う・争う、取り組みである。
 整数論は、個数の性質を公理として、その公理の体系の中において成立することを調査し解明し、確認してゆく取り組みである。
 物理学は、帰納法によって導出した規準を公理に使用して、物理現象の説明を展開してゆく取り組みである。
 コンピュータープログラミングは、用意した語句とそれに対して割り当てられている動作を、公理として・規準として、その公理・その規準、の体系の中において構成できる動作を使用して、目的を実現する動作を・目的の動作を、構成する取り組みである。
 それらに取り組んだ経験が、演繹思考の取り組みであり、演繹思考を育んでいる。
 物理学の場合は、帰納法で導出した確実に真であるわけではないものを公理に使用しているわけであるから、そのようなものを公理に使用した演繹思考において破綻が発見された場合には、公理・規準、とした情報に誤りがあるということである。
 なお、演繹思考こそが、物事の白黒をはっきりさせることのできる思考法である。
 であるから、修正につぐ修正を重ねてでも、公理・規準、に何一つ反していない状態の、思考・シュミレーション、を、展開すること・顕在化すること・明示すること・実践すること、をまず達成する。
 そのことが必要なこと、大切なこと、重要なこと、である。
 それが達成できて初めて、公理・規準、が真である世界での成立状態が把握できて、あと何が必要なのかとかあるいは何か余分なのかとか、どうやった時に不適切なものが成立するのかとか、どうやった時に適切なものが成立するのかとか、の発見の可能性が拓けてくる。
 自分(=竹花忠)は、修正につぐ修正を重ねながらでも、公理・規準、に何一つ反していない状態の、思考・シミュレーション、をやり遂げる根気と忍耐と意欲と執念を持っている。
 それを活かして、演繹思考をやりとげている。
 それによって、将棋はアマチュアの有段者、整数論はRSA暗号の理解、物理学は微分方程式の若干の理解、コンピュータープログラミングでは、何種類がのプログラムの自作、などを果たしている。