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将棋、そして、人生

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Copyright © 2022 TAKEHANA TADASHI
著作日時: 2022/10/18 23:54
将棋、そして、人生:
 詰将棋や本将棋の経験が豊富であるから、明らかに差のある、有力手順とそうでない手順が提示されれば、どちからが有力手順であるか判断できる。
 また、その手順のどこが魅力的なのか、有力な手なのか、もわかる。
 それがなぜ魅力的なのか有力なのか、つまり、どんなことだから魅力的なのか有力なのか、それがどんな相互関係を形成するから魅力的な手なのか有力な手なのか。
 そういったことが、判別・判断、できるだけの経験がある。
 捨てているけれども、拠点まで引き寄せて、拠点からヒモ付きの攻めで押し返してゆけるので魅力的な手順であるのだ、とか。
 捨てているけれども、取らせた形が、玉の逃げ道を塞ぐことになっているので、より容易に詰め上げられることになっているのが魅力だ、とか。
 この手で玉を追った後、長射程の攻め駒で合駒効かずの王手。そして、玉が逃げた後、長射程の効きで一挙に玉の挙動範囲を狭めるるのが魅力だ、とか。
 ヒモ付きの位置からの王手を玉方の駒に取らせて、さらに、その駒と玉に照準を合わせた王手。玉がもう一方の照準が合っていた駒に寄り添った位置に逃ざるを得ないなら、玉が寄り添ったその駒を取ってのヒモ付きの王手。守備駒が取り払えた上、ヒモ付きの攻めで攻め上げてゆけるのが魅力だ、とか。
 手順が示されたら、その手順のどこが、どういうところが、どういう相互関係を形成しているところが、魅力であると言えるところなのか、それが、わかることができる。
 このゲームにおける損得がわかっているから、どういうことができると有利であるのかがわかっているから。
 駒を捨てること、損すること、は、基本的には、損なこと、忌避すべきこと、である。しかし、相手の玉を詰上げることができるなら、相手の玉を取ってしまうことができるなら、その過程における損失は、すべて必要経費であり、全額ペイできるわけである。余りある膨大な利得の、相手方の玉が取得されるのだから。であるから、相手方の玉を仕留められる時には、損得度外視でいくら経費を掛けてもいいから、相手の玉さえ仕留めてしまえばいい。
 なので、味方の駒を捨てることと引き換えに、いかに、有利な形に誘導できるか、いかに相手の玉を仕留めやすい形に誘導できるか、最終的に、相手の玉を仕留めてしまうことができるなら、可能な限り味方の駒を捨てることが許される。それが将棋というゲームの世界である。
 味方であっても、味方である各駒には、守られるべき権利も尊厳も一切存在していない。そういうものをリソースとして使用して行われるゲームが将棋であるから。
 その点は、人生というゲームの世界と同列ではない。
 人生というゲームの世界にあっては、自分にも他者にも味方にも敵にも、権利や尊厳、守られるべき人権が存在する。相互に、権利や尊厳、人権、を侵害することなく公正に、人生というゲームは進められてゆかなければならない。
 その点、ロシアのプーチンの現状は最悪である。自国民も他国民も消耗品かのように、自らの利益の実現のためには好きなだけ損耗させてしまっていいかのように振る舞っているようにみえる。