トップページへ

基本的人権の尊重について

Access Count : 43

Copyright (c) 2024 TADASHI TAKEHANA
著作日時: 2023/02/16 11:27
更新版著作日時: 2024/03/07 23:29
基本的人権の尊重について:
 自分(=竹花忠)は自由が非常に好きである。その意味において自分(=竹花忠)は自由主義者である。だからと言って、自分(=竹花忠)は反社会的勢力ではない。
 ただ、極力、不当に自由が制限されるのが嫌なだけである。最大限に自由が確保されることを希望するのが自分(=竹花忠)の立場である。
 なので、正当な根拠なく自由が制限されることを自分(=竹花忠)は、忌避する・嫌う。できる限り自由が制限されないことを追求するのが自分(=竹花忠)の立場である。
 であるから、自由を制限することが正当化される根拠は、できるだけ小さい範囲に留めたい。自由を制限する正当性を広く解釈したくない。それが自分(=竹花忠)の立場である。
 そうした立場で思考して、受け入れることに定まったものが、つまり、受け入れることに正当性が認められるとして定まったものが、基本的人権を尊重する憲法下での立憲主義のもとに定められた法律が強制する内容の受け入れである。基本的にそれだけしか受け入れない。ただし、脱法的悪徳行為も制限されるべきである。法律の強制内容による制限と脱法的悪徳行為の制限、それ以外、自由が制限されることはあってはならない。
 自分(=竹花忠)の見解は、そういう立場のもとのもの・そういうコンテキストのもとのもの、である。

 その時その時の自分の立場や都合にあわせた規準や、その時その時の自分の立場や都合に合わせて変化する規準には、正当性も公正さもない。つまり、恣意的な規準には、正当性も公正さもない。
 そのような、正当性も公正さもない規準・恣意的な規準、には、従わされるいわれはない。
 正当性、公正さ、を持った従わされるべき規準は、基本的人権を尊重する憲法のもとに、国権の最高機関が議決した法律だけである。
 あとは、物理法則と化学法則と数理だけが、正当性、公正さ、のある規準である。物理法則と化学法則と数理は、否応なしに万人に対して共通に発効するから、正当性、公正さ、うんぬん以前に、否応なく受用してゆくしかないものなのだから。
 だから、従わされるべきは、受用すべきは、基本的人権を尊重する憲法のもとに制定された法律と物理法則と化学法則と数理だけである。
 それらを、公理・規準、として演繹思考を行う。
 また、リスク管理の観点も取り入れた思考を進める。
 以上の思考から導出される内容を真として、思考を進めてゆく、ことを進めてゆく。
 それが正しい思考であり、正しい社会運営である。

 社会において、不当に、干渉・侵害、されることなく、成功の程度が高くなかった場合にもそれなりに正当に最大限自由に生きてゆきたい。社会において、不当に、干渉・侵害、されずに、成功の程度が高くなかった場合にあっても、正当に最大限自由に生きてゆけることが望みである。
 それが実現されるためには、不当な、干渉・侵害、が取り締まられなければならないし、一定の社会保障(制度)も必要である。
 そのための規準が、基本的人権を尊重する方針のもとに定められた、一律一様に強制的に徹底的に適用されるべき、規準、法律である。
 社会の全構成員が相互に不当な、干渉・侵害、を受けずに、成功の程度が高くなかった場合にもそれなりに正当に最大限自由に生きてゆけることが実現するには、基本的人権を尊重する法律の一律一様の強制的な徹底適用が必要である。
 そのことは、最低限必要な公正、適正、正当、な、干渉・拘束、である。
 であるから、その法律に違反した者は、速やかに、摘発されて処罰されて、賠償させられることが必要である。
 以上によって、不当に、干渉・侵害、されずに、成功の程度が高くなかった場合にあってもそれなりに正当に最大限自由に生きてゆける社会が実現する。
 このビジョン・この構想、のもとに、社会が運営されてゆくことを望む。

 建設的な、良策・良計・有効手、を積み重ねてあると、適正、公正な規準を遵守した中において、自己利益の実現を目指した行動によって、どんどん一方的に自らの、利益・利得、ばかりが自力で何の不正もなく実現できてゆけたりするものである。
 反対に、失敗・失策・ムダ・緩手、が積みあがっていると、適正、公正な規準を遵守した中において、最善を尽くしても・精一杯の努力をしても、どんどん一方的に自らの、不利益・損失、ばかりが、発生・成立、するばかりで、自力では、どんにもならなかったり・どうにも立ちゆかなかったり・どうにも首が回らなかったり、もするものである。
 自分に対して、何ら犯罪行為が行われていなくて、それでありながら、適正、公正な規準を遵守した中で自分が最善を尽くしても、立ちゆかない、自分の損失が膨らむばかりてである。そのような状況というのは、失敗・失策・ムダ・緩手、が相当量積みあがってしまっているためと考えられる。そうなると自力ではどうにもならない泥沼状態である。
 しかし、基本的人権の尊重を主柱とする民主主義国家にあっては、セーフティーネット・社会保障体制、があるので、自力では立ちゆかなくても、それにすがって・それを糧にして・それを基盤にして、立て直しを図る・再起を図る、余地がある。

 泥沼状態に陥らないためには、失敗・失策・ムダ・緩手、を回避した選択をして生きてゆくのが有効である。
 しかし、失敗・失策・ムダ・緩手、の回避のためにはそれなりに費用がかかったりもする。用意できる資金には限りがあるわけだから、各自の、経済状況・経済環境、に応じて、失敗・失策・ムダ・緩手、の回避しづらい選択肢を選んで進んでゆくしかない場合もある。
 つまり、優秀なプライベート教師による個人レッスンが資金の都合で選択できないとなれば、書籍を購入しての独学の選択となったりする。資金力の都合から、失敗・失策・ムダ・緩手、の回避しづらい選択肢を選んで進まざるを得ないということがある。
 それでも、自分の能力水準に合った、定義漏れなく、誤字脱字なく、表現の不具合なく、一意的な文章で、飛躍なく、順序よく、十分に情報が開示された網羅された書籍にでくわせば、失敗・失策・ムダ・緩手、は、書籍であっても相当に抑制できるが。
 しかし、そのような好都合な良好な書籍ばかりでもないから、合わせ技で良好な書籍に寄せるべく、同一テーマの異なった書籍を次々に購入して読み漁ることを選択したりせざるを得なかったりする。
 販売されている書籍の品質の都合や資金的な都合から、失敗・失策・ムダ・緩手、を甘受する選択をして進んでゆくことにもならざるを終えなかったりする。
 そのような、失敗・失策・ムダ・緩手、が回避し得ない事情もあったりするが、それにしても、あまりに、失敗・失策・ムダ・緩手、が相対的に多ければ、『適正、公正な規準を遵守した中において、最善を尽くしても・精一杯の努力をしても、どんどん一方的に自らの、不利益・損失、ばかりが、発生・成立、するばかりで、自力では、どんにもならなかったり・どうにも立ちゆかなかったり・どうにも首が回らなかったり』ということに立ち至ることになる。
 ところで、日本人の半数は、書籍を年間、5冊から7冊くらいしか読んでいないらしい。
 1ヶ月に5冊読めば、読書量的には上位3%の存在になれるとか。
 であるから、個人レッスンに比べれば非効率な読書による独学であるが、書籍を読まないでいるよりは、書籍を読んだ方がそれなりにかなり効率的に学習が進む。なので、失敗・失策・ムダ・緩手、を抱え込みつつの苦労の多い読書による独学ではあるが、しないでいるよりはした方が圧倒的に能力の向上に役立つ。
 もっとも、学校などに通っていて、疑問に答えてくれる教師がいる環境であるなら、どんどん質問してどんどん教えてもらいながらの方が独学よりも効率はいい。
 手に入れられるのが、独学環境しかなく、情報源が書籍くらいしかないなら、黙々と類書を次々に読んでいくくらいが、その環境下では、失敗・失策・ムダ・緩手、の少ない選択になる。優秀なプライベート教師による個人レッスンに比べればパフォーマンスの低い学習方法ではあるのだが。
 ということで、自分(=竹花忠)は、資金力の都合もあって、書籍の読書による独学を多用している。