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理解のためにはまず受容を果たす

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Copyright © 2019 TAKEHANA TADASHI
著作日時: 2018.05.05.土. 20:15:00 著作者、竹花 忠
更新版著作日時: 2020.05.07.木. 08:51:00 著作者、竹花 忠
理解のためにはまず受容を果たす:
 小範囲を一度しただけでは、腑に落ちない文章。再読しても腑に落ちない。
 そこで読解範囲を拡大。読解範囲を追加してゆく。
 しかし理解が果たせない。
 つまり、受け入れ枠の用意されていない内容というか、当座用意できている、思考のためのリソースの容量・記憶のためのリソースの容量・読解のためのリソースの容量、を超えるリソースが必要な文章が突きつけられてきているわけである。
 なので、苦痛であり、拒絶的に心が反応してしまう。
 しかし、知識・情報・文言・文章、の受け入れの拒絶をしない。受け入れの拒絶をすると、理解が滞る。
 受け入れ枠のないところに・受け入れ素地のないところに、新しく突きつけられてきた内容であっても、なんとか・なんとしても、スムーズに受け入れる。受け入れることによって、意識の中に設備することによって、理解が促進される。
 整合関係上・経過関係状況上、そういうことがいえる。
 つまり、下記に述べるようなことがいえる。
 その、知識・情報、を受け止めるための素地がなく、そのためもあって、知識・情報、を受け入れるためのリソースが十分に準備できていないところに、知識・情報、が突きつけられてきた。すると、ある種苦痛であったり、あるいは、拒絶的になってしまう。
 しかし、知識・情報、を、苦痛のために拒絶したり反射的に拒絶していたのでは、その、知識・情報、の理解は進まない。
 なんとか・なんとしても、提示された、知識・情報、を、受け入れてしまう・受け取ってしまう。そうすれば、その、知識・情報、が、把握され・設備され・所持され、その、知識・情報、を使用しての解釈なり、演算の実行なり、シミュレーションなりが行えてゆけることになる。
 以上が、整合関係上・経過関係状況上、言えることである。
 理解のために必要なものであるのに受け入れなければ、当然理解は滞る。必要なものであるのだから、それを受け入れた、増設した意識体系を整えれば、当然、スムーズに理解できてゆくことになる。
 だからなんとしても自分の意識をこじ開けてか、リソースの準備を整わせてか、知識・情報、を、なんとか・なんとしても、受容してしまう。
 それをせずに、記憶のネットワークの中に記憶スペースが予約されていないからといって、リソースを準備してないからといって、拒絶することによって、理解が滞る。
 拒絶したら理解が進まなくなる内容の、知識・情報、であるれば、拒絶したら理解が進まなくなるのが当然である。
 であるから、速やかに、リソースを消耗させている記憶を、短期記憶なり長期記憶なりに移行させて、リソースを解放し、それによって、突きつけられてきている、知識・情報、を取り込み・受容し、それを組み込んだ意識体系を構築してその、知識・情報・内容、を武器として、活用できるものとして、点検検証の材料として、点検検証を行う際のリソースとして、役立てられる、状況を・体制を、整えれ。そうすれば、理解がスムーズに進むというものである。
 さらに言えば、リソースを消耗して受容した、知識・情報、も、さらに、短期記憶・長期記憶、に移行させれれば、リソースの消耗無しに、自在に使用できる、知識・情報、となる。思考の際の有用な武器になる。
 整合関係上・経過関係状況上、そういうことが言える。辻褄上、そういうことが言える。
 短期記憶なり長期記憶を形成する負担を重荷に感じて、その苦痛から逃れようと記憶の形成、記憶を設備すること、を拒絶することによって理解が滞る。

 この初出の内容。既知のものではないので、自分(=竹花忠)の中から呼び出されない。それで理解が滞る。理解の滞ることを引き起こす対象を嫌う、拒絶する、心が芽生える。
 しかし、自分(=竹花忠)の記憶として導入して、自分(=竹花忠)の既知の記憶に導入して、導入したものをさらに呼び出して使用する体制を構築する。それこそが必要な対応であって、嫌ったり拒絶したりすることは百害あって一利なしである。
 自分(=竹花忠)の記憶に導入して既知のものにして、既知のものとして呼び出して使用することこそが必要なことである。
 この必要不可欠なことを拒絶するから滞るのである。
 そこをよくわきまえて、苦痛であっても負担であっても、短期記憶なり長期記憶なりとして、自分(=竹花忠)の記憶の中に取り込んで、既知のものとして負担なく使用できるものにしてしまう取り組みこそが必要なことである。

 学習してわかっておけば、それを参照して引き出して、ああそれはそうだ、とわかってゆける。しかし、自分(=竹花忠)の既知の内容として持ち合わせていない、そして、自分の既知の内容と辻褄が合う合わないが確認できるような内容でもいなので、正否の判断がつけられなくて、そうだともそうでないとも理解が果たせない。
 自分(=竹花忠)の中から、既知の内容でわかることができればいいので、すみやかに学習を果たして自分(=竹花忠)の既知の内容にしてしまうことが必要である。
 だから、当初は、正否の判断不能のまま、ただただ、受け入れてしまう。受け入れた上で、辻褄が合うかあわないかが検証できる場面に出くわしたときに、辻褄があわなければ否定する。辻褄があっていれば、受け入れを継続する。
 そういう暫定的な対応で対処してゆく。まず受け入れてしまうこと、まず記憶してしまうこと、まず、記憶してしまって使いまわせるものにしてしまうことが大切である。

 既に学習済みの内容・既知の内容、を再学習した時の学習様態を振り返ると、学習済みの既知の知識を引き出して、それと照合して・それを思い出して、ああそうだ・ああそれだ、としてわかって進んでゆけていた。
 またあるいは、既知の内容と辻褄が合う内容であることが頭の中で確認できた上で、ああそれはそうだ、とわかってゆける。
 であるから、そのことを用いて、学習済みの内容である時のわかり方を記述。それに対して、初出・初読、の内容で、それが果たせない時における、前述の例の時の様態については、それを振り返ってその様子を名状して、表現して、著作を完成、ということである。


 自分(=竹花忠)にあっては、新出情報・初出情報・忘失情報、の把握の際に、思考のためのリソースというか記憶のためのリソースというかを多く消耗する。
 既知の、知識・情報、を理解するときよりも、苦痛であるし切迫するし、あるいは、理解に到達できずにオーバーフローしてあふれ出して、思考が理解が破綻してしまうということが、起き易いのだから。
 自分(=竹花忠)にあっては、短期記憶・長期記憶、になってしまえば、その、知識・情報、の利用に際して、思考のためのリソース・記憶のためのリソース、はほとんど消耗しないで、その、短期記憶・長期記憶、となった、知識・情報、が利用してゆける。
 短期記憶・長期記憶、になってしまった後は、そのような、知識・情報、の利用個数を増やしても、苦痛や切迫感やオーバーフロー、あふれ出し感や、思考・理解、の破綻をなかなかきたさないのだから。